多かれ少なかれ人は誰だって夢を抱いているものです。
トップDJやプロデューサーを目指して日夜練習に励んでいる人もいるかと思いますが、今シーンのトップに君臨するDJたちだって昔は普通の人間で、普通の生活をしていました。
では一体どのようにして有名になったのでしょうか?今回はそんなEDMのスターたちの知られざる過去を紹介したいと思います!
目次
Steve Aokiの過去
アメリカの鉄板焼きレストランチェーン「BENIHANA」の創業者である青木 廣彰を父に持つSteve Aokiは、「BENIHANA」の後継者として幼い頃から重責を担って過ごしてきました。
まず基礎を学ぶためにレストランのキッチンでヘルプとして入る傍ら、大学に通いながら電話による商品販売のバイトとファーストフードのデリバリースタッフを掛け持ち。
しかし音楽の道を諦めきれず大学在学中に自身の曲をプロデュースしたり、アンダーグラウンドなコンサートを運営などを経験し、1996年彼が19歳のときに自身のレーベル「Dim Mak」を立ち上げ本格的にキャリアをスタートさせたのです。
自身と同じアジア系アメリカ人であるBruce Lee(ブルース・リー)から多くのインスパイアを受けたと語るSteve Aoki。
そのため中国語で”死の感触”を意味し、Bruce Leeをイメージする言葉でもある「Dim Mak」をレーベル名としたのです。
ちなみにNewport Harbor High School(ニューポート・ハーバー高校)に在学していたときはバトミントンチームに所属しており、そのときの写真がこちら。
バイトやプロデュースで多忙な毎日を過ごしていましたが、University of California, Santa Barbara(カリフォルニア大学サンタバーバラ校)で女性学と社会学の学士を取得して卒業しています。
Zeddの過去
ロシアで生まれドイツで育ったZeddは、ギタリスト兼学校教師の父親とピアノの講師をしていた母親2人の英才教育によって4歳からクラシックミュージックを習わされました。
12歳になると兄たちと一緒にドイツのデスコアバンド、Dioramicを結成しドラムを担当していた頃もありますが、フランス出身のデュオ Justiceに影響を受け、2009年から本格的にプロデュースの術を学びます。
家のコンピュータを使って自分だけの音景を構築し、2011年にMySpaceでSkrillexに「“Hey, 99.9% of the EDM scene sucks, you’re the last bit that does not, you’re awesome and you’ll like my music.”(EDMシーンの99.9%は最悪だけど、あなたは残りの0.1%に該当する素晴らしいアーティストだ。だから絶対僕の音楽も気に入ると思う。)」と強気なメッセージを送信。
まだ無名に近い状態でしたが、Skrillexの“Scary Monsters and Nice Sprites”をリミックスした曲がBeatportのエレクトロハウスチャートで2位を獲得し、Skrillex本人からも一目置かれ一気にスターダムにのし上がったのです。
Diploの過去
アメリカ・フィラデルフィアにあるテンプル大学に通っていたDiploは、当時からDJのスキルがずば抜けており学校の人気者でした。
親友であるDJのLow Budgetと一緒に「Hollertronix」というパーティーを定期的に開催し、これが大好評。
パーティーの成功で知名度を上げたDiploたちはHollertronix名義でミックステープを幾つか出すと、『Never Scared』はニューヨーク・タイムズ誌で2003年のトップ10アルバムにも選ばれ世界的に注目されることになります。
ちなみにDiploはかつて学童保育の先生として働いていた時期がありましたが、先生や職業に対する敬意が足りないと言われ退職。
現在は子どもたちへの教育ではなく、私たちにトゥワークの仕方を教えてくれました!
Calvin Harrisの過去
スコットランド出身のCalvin Harrisは、 Dumfries High School(ダンフリース高校)を卒業後、地元の食料雑貨店の魚を加工するセクションで働いていました。
197cmという高身長を持つCalvin Harrisは、みんなが届かない高い棚の商品を取ることができるため長年大活躍していましたが、彼の誕生日である1月17日にまさかの火事に遭います。
高卒で学歴もなく親元を離れていたCalvin Harrisは絶望に打ちひしがれますが、貯めたお金でDJ機材を購入し、199年から自身の曲のプロデュースをスタート。
18歳のときに「Stouffer」名義でリリースした“Da Bongos”と“Brighter Days”をきっかけに注目されはじめ、2007年に出したデビューアルバム“I Created Disco”はゴールドディスク認定され有名になりました。
https://www.youtube.com/watch?v=PpTp8_qzS1k
現在年収4850万ドル(約53億円)とも言われており、世界のDJ年収ランキングでは5年連続ぶっちぎりの1位を記録するなど高卒の食料雑貨店バイトから最も稼ぐDJへと成り上がったのです!
Laidback Lukeの過去
オランダ人の父親とフィリピン人の母親の元に生まれたLaidback Lukeは、漫画家を目指すために10代を落書きアートの練習に捧げていました。
集団で色んな壁に落書きをしてまわっていましたが、メンバーのひとりが警察に捕まり、彼の密告によってLaidback Lukeも逮捕。
その後改心し情熱を音楽に注ぎ、色んなフェスに行っては最前列で踊り狂っていました。
音楽への好奇心によって聴くだけで物足りなくなったLaidback Lukeは、1980年代主に欧州の若者の間で人気だったアミガコンピューターを持つ友人の影響もあり自身で曲を作ることを決意します。
1993年からDJもスタートし、2004年には自身のレーベル「Mixmash Records」を立ち上げ、今では25年以上のキャリアを持つベテランDJ/プロデューサーのひとりとなりました!
ちなみにプライベートでは2012年に昔からの友人だったDJのGina Turnerと結婚するなど公私共に充実した生活を送っています。
NERVOの過去
1983年歯科医の両親のもと、オーストラリアで生まれた双子の姉妹、Miriam Nervo(妹)とOlivia Nervo(姉)はもともとファッションモデルを目指していました。
キューにある女子大のGenazzano FCJ College(ジェナザーノ FCJ大学)を卒業後、モデル事務所に入りVOGUEやELLE、COSMOPOLITAN、NYLON、InStyle、Peopleといったファッション雑誌にも特集掲載されました。
その後、Opera Australia Academyへの入学も許可されましたが、2人は大学時代にハマった音楽の道へ進むためにアカデミーを辞め、本格的にDJ/プロデュースをスタートすることになります。
18歳のときにSony/ATV Music Publishingと契約し、作詞に携わったDavid Guettaの2009年のヒット曲“When Love Takes Over”がグラミー賞を獲得したことをきっかけにブレイク!
デヴィッド・ゲッタ & ケリー・ローランド
価格: 250円
posted with sticky on 2017.10.6
現在DJ Magの人気DJランキングでは女性DJのなかでトップに君臨しており、音楽活動だけでなくモデル活動も継続しています。
Hardwellの過去
1988年オランダのブレダで生まれたHardwellは、4歳の頃からピアノを習い始め、音楽スクールにも通わされていました。
そんな早期の英才教育と同じくブレダ出身のTiëstoに影響を受けた部分が大きく、12歳になるとすでに友達の誕生日パーティーでDJを披露したり、自身初の曲までプロデュースしていました!
この誕生日パーティーで100人の前でパフォーマンスした直後、Hardwellの父親のアイデアでステージネームを本名の「Robert」から「Hardwell」に変更したのです。
ちなみにラストネームの「Corput」をラテン語から英語表記にすると「Cor」が「Heart」、「Put」が「Well」となり、多少文字を変え組み合わせて「Hardwell」となったのです。
この2年後、オランダ出身のデュオ、Klubbheadsのレーベル「Digidance」が彼の才能を見出し契約。
その3週間後には2曲収録の『Bubbling Beats 1』を、2006年に初のオフィシャルシングル“Play It Around”をリリース。
10代にしてオランダ中のクラブで回すようになり、2010年には自身のレーベル「Revealed Recordings」まで立ち上げました。
DJ MagのDJランキングでは2013年と2014年に1位に選ばれるなど不動の地位を築きました!
Dillon Francisの過去
1987年ロサンゼルスで生まれたDillon Francisは、 本当かどうか分かりませんが15歳までswear words( f*ckなどの汚い言葉)の存在を知らず、家では毎日セサミストリートがあってる2時間しかテレビを見るのを許されなかったそうです。
この反動で現在クレイジーな人柄になったのでしょうか?笑
音楽が好きでロックバンドを組むものの上手くいかずすぐに解散。
当時通っていたコミュニティ大学も中退し、その代わりに両親に「絶対に有名なミュージックプロデューサーになるから1年間だけ家にいさせて欲しい。もし売れなかったらすぐに学校に戻る。」と固い約束を結びます。
この瞬間からDAWソフトのAbleton Liveに打ち込む日々がスタートし、1日10時間は費やしていたそうです。
そんな才能を見出したのはDiploで、2011年に“Que Que”という曲でコラボまで実現!
その後Dim Mak Records, Mad Decent, OWSLA等のレーベルからヒット曲を量産し、今ではその個性的なキャラクターと高いDJ/プロデュースのスキルが世界的にも認められEDMシーンの人気者となりました!
Porter Robinsonの過去
アメリカ・ノースカロライナ州のチャペルヒルで生まれたPorter Robinsonは、昔は全く違う生活を歩んでいたのです。
彼が生まれ育った町は人口6万人以下の田舎で、友達とも仲良くなれず中学校も途中で不登校となり、約1年間自宅で教育を受けていました。
そんな彼の心の支えは大好きだった音楽だけで、12歳の頃から曲のプロデュースをスタート。
なんでも日本でも流行したアーケードの音楽ゲーム、ダンスダンスレボリューションなどのビデオゲームの音楽に大きな影響を受けたそうです。
17歳のときにリリースした“Say My Name”は、Beatportのエレクトロハウスチャートで1位を獲得したことで、彼の人生にスポットライトが当たります。
まだ音楽の道に進む決心が付いていなかったPorter Robinsonは休学期間を延長しますが、その数ヵ月後に出したEP『Spitfire』が大ヒットし、Tiëstoとのツアーや大きなフェスへの出演も決まり、プロのDJ/プロデューサーになることにしたのです!
deadmau5の過去
カナダのナイアガラの滝の近くで生まれたdeadmau5は、生まれ持った才能なのか電子機器やハードウェアの解析が得意分野で、アニメーションやウェブデザインのバイトを始めます。
ちなみにハイテク系のバイトとは別に、掛け持ちで缶詰工場でも働いていました。
そしてWestlane Secondary School(ウェストレーン高等学校)卒業後、オンラインの音楽ライセンス会社でプログラマーとして就職。
この頃からテクノロジー好きが高じてデモトラックを作り始めるのですが、画期的な音楽プロデューサーになろう!という気持ちは毛頭なく、あくまでも趣味だったそうです
ただ10歳の頃に誕生日プレゼントでキーボードを買ってもらったことがあるなど、幼い頃から音楽は好きだったようです。
その後1995年に作ったデモ集『Can’t Remember The Name』は約7年後に評価され、2005年には初のスタジオアルバム『Get Scraped』を発表。
2007年には自身のレーベル「mau5trap」を立ち上げ、死んだネズミの被り物や毒舌っぷりは若干異質ですが、DJ/プロデュースの腕は各方面から高く評価されています!
おわりに
いかがでしたか。
みんな類まれない努力をしていたり、好きなことをとことん継続して没頭していたのが分かりますね。
まずは有名DJたち10名をピックアップしてみましたが、タイトルに【第1弾】としてあるように、近いうちに第2弾も紹介したいと思います!
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